MENU

全国の地区別研究会のご紹介

Introduction of regional study groups in Japan

関東地区研究会

2009年度第1回 関東地区研究会報告

場所: 立教大学

話題提供者(1): Voltaire Garces Cang氏(倫理研究所)
テーマ:「無形文化遺産の生成プロセス ―『伝統』の所有をめぐって―」
本研究は、無形文化遺産の中でも民俗文化財に分類される郡上市八幡町の「郡上おどり」を通して、文化遺産モデルを構築するという意欲的なねらいをもって完成された博士論文に基づくものである。研究内容の充実度もさることながら、発表者カン・ボルテール・ガルセス氏個人の茶道の経験に端を発した疑問から研究が生まれ、自らを研究の場に置き調査を進めた過程が臨場感溢れ描写された発表であった。日本語による発表は初めてとのことだったが、参加者を飽きさせない巧みな表現力は参加者一同大いに参考となった。遺産とは何かを正攻法から分類した上で先行研究をもとに遺産研究を3つのアプローチに分けたことは交通整理になり、基本知識を踏まえ、郡上おどりを保存団体・商工会・そのほかの組織コミュニケーションという側面から考察したのは効果的であり、かつ、後段に至り、氏の出発点であった家元制度を遺産モデルと絡め合わせたモデル構築は効果的に提示されている。
さて、本研究にうまくつながるか不確かであるが、この夏、琵琶湖に家族で滞在した折、西側に聳え立つ比叡山延暦寺(世界遺産)で涼をとることにした。東塔・西塔・横川の三塔に仏堂があり、東塔の根本中堂創建以来、1200年の長きに渡って灯され続けてきた不滅の法灯がある。織田信長により根本中堂そのものが焼き払われたため、法灯が一時絶えてしまったが、焼き払われる以前に山形の立石寺に分灯してあったものを、この地に再び復活できたらしい。不滅の法灯とははたして「有形」なのか「無形」なのか。「火」という極めて動的かつ静的なものの曖昧な境界に存する実体(本研究の「水」も同様)、そして灯し続けるという行為は、はたしてどのようにとらえられるべきなのかをめぐって、コミュニケーション的な側面からさらなる考察がおこなわれても面白いと思わせた小旅行となったが、そもそもの契機を与えてくれたのはガルセス氏の研究に相違ない。
文責: 小坂貴志(立教大学)

話題提供者(2): 石井敏氏 (獨協大学)
テーマ: 「高まる宗教間対話の研究・教育の必要性」
「高まる宗教間対話の研究・教育の必要性」と題して石井敏先生がお話しされると聞き、宗教間の対話や文明間の対話に強い関心を持つ者として、拝聴させていただいた。
石井先生は日本を含む現代世界が「享楽・浪費主義による精神的荒廃」に見舞われている現況と日本における宗教的状況(無関心)に触れた後、イスラームとの対話を呼び掛けるオバマ大統領をはじめ現代世界で起こっている対話の動きを紹介、宗教間の対話を促進する研究教育の必要性を力説された。なぜ宗教間の対話や文明間の対話の機運が高まっているのだろうか。それは、現在、諸宗教、諸文明の間の関係が無視、蔑視、断絶、衝突といった深刻な状態に陥っているからに他ならない。
ところで、宗教にせよ、文明にせよ、所詮は人間が自分のために作り、作り変えてきたものである。したがって変化させ、互いの無視、蔑視、断絶、衝突も避けることができるはずである。確かに、宗教や文明は歴史とともにますます強力になり人間を圧倒しているが、所詮、人間自身が人間自身のために作ったのだということを私たちは忘れてならない。
人間が作ったのだから、宗教にせよ、文明にせよ、外見がどれほど異なって見えようとも本質は同じはずである。実際、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、ゾロアスター教、ヒンドゥー教、道教(老荘思想)、仏教、儒教のどれにも通底するものがあると私は考えている。たとえばパウロは「キリストこそ私のうちに生きている」といったが、そのキリストとスーフィ(イスラーム)の「私は神(アナ・アル・ハク)」のハク(本質、真髄、神)、また、ヒンドゥー教のアートマン(個我)、仏教の「仏」(一切衆生悉有仏性、「生きとし生けるものすべてに仏性あり」の意)、道教(老荘思想)の道(タオ)は根源的に同一のものを意味していると私は思っている。
文責: 染谷臣道(静岡大学)